昭和54年12月14日  -  朝の御理解
 【入力者: 末永 満】

御理解第66節


 人間は勝手な者でと。金光様の御信心をいうならばその勝手な生き方をしないということを教祖御自身が頂かれて教えておられる教えだと思います。人間がいわゆる、勝手(?)生き方ではなくて一つの道理に基づいた生き方。しかもその道理に基づく生き方をさせて頂けば天地の神様が願うて下さる、氏子信心しておかげを受けてくいれと仰るそのおかげが受けられる。この世いうならば、有り難い、勿体無いの世界に変えていくことができる生き方。そういう信心を私共は日々稽古させて頂いておるのでございます。
 ですからとてもやはりその稽古の焦点というものが間違ってくるとならこういう素晴らしいみ教えでも分からんのです。ね。申しますならば、天地のように生きたいという心になることです。そこにはね、小さいことにこだわらんですむ。大きなことが起って来ても驚かんですむ程しの心が段々養われてくるのです。あまりにも大きいですからね、天地のように生きたいなんていうのは。けれども小天地と言われる私共がその大天地の心に神習うということはね、いうならば親の心を心とする生き方。だから金光教の信心、いや、合楽理念で申しますように親孝行はもう合楽理念の根本だというふうに言われるのもそういうわけなんです。
 天地のように生きたい。いうならば、親の心に沿いたい。その親の心に沿うということはね、こんなにも楽しゅうして有り難うして、ほんとに勿体無い。しかもね、リズムに乗っての生き方。もうここ一分一理でも狂わせたらもういうなら生活が乱れてくる。心が乱れてくる。生身をもっておる人間ですからそういうことはまぁ、いつもあるのですけれどもそれにほっと気づかせて頂いて又、安らぐ心、安心の心をにならせて頂くいうならば
手立て。
 小さいことにこだわらず大きなことに驚かずということは実は、小さいことに驚き大きなことにいよいよをもって驚いてしまう生活だと思うです。けれどもその小さいことにもいうならば、ハットする程に驚く。ね。
 夜中の御祈念何かさせて頂いておりますともうそれこそあの針が落ちてもそれを真剣に受け止めるような心の状態になっておりますからもうドキーッとしますよね。皆さんも体験あるでしょうか。(?)したことにもいうならば、驚く。もう閉じ済まされたようなところの状態の中にちょっとささえなことでもね。
 先日、昨日もお話したことしたけど。昨日、一昨日夕方から久留米に行かせてなければできないような行ってまいりました。帰りをこう北野から田舎の方へこうまわって帰ってそちらの方が早いんだそうですね。ラッシュに会わないですむわけです。ちょうどあの田舎から出て大橋の橋のところに(?)時に家の総子達はこの大橋学校通ってるんだけれども。どのくらい(?)あの時間がかかるだろうかと。まぁ、十分か十五分子供達はかかるでしょうが。そなふうに前にあの若先生乗っておりましたから。そうして聞きましたらほんとも(?)(?)の間でしたけれども、前に(?)(?)(?)雪に聡子が(?)と自伝者をこうやってもって立っておるんですよ。私はもうびっくりしました。それこそ一番(?)。
 あんなところに立ってあの又、自転車に乗るということも知りませんでしから自転車をもってあそこにちゃんとこう立っておりますもん。あれは聡子じゃないかと言うて止めてそのまま言ったことですけども。さー、それから自分は自転車で帰ると言うので私共はもう自動車で帰ってまいりました。で、直ぐお風呂入りましたけれども、それが気になって気になって仕方がないお風呂入っておる間。それでもう慌てて上がってからあの聡子は帰ってきたかと言うたら、いいえまだ帰って来ませんち言う。いうならあの友達のところに行くとか何か言うて出ましたけれども、とこう言うんです。いいや、そんなことじゃなかったバイ。大橋小学校の横のあの店の前に自転車をもってこう立っておったバイち。今、私共は会う来たと。で、まだ帰ってこんのと言うてまぁ、あの気になったもんで又、気になお気になってです。そうしたらもう帰って来てあのおう、お家におったんだそうですけども。まぁ、それで安心したわけですけれどもね。
 皆さんが不思議に思われるでしょう。親先生はもうそれこそ小さいことにはこだわらず大きなことに驚かれんような内容じゃろうと、皆さんがまだ例えば思っておられるでしょう。ね。それがね、余りにも間違いのないすごく間違いのない働きの中にあってから気になって仕方がなかったんです。あんなところで聡子(?)思うても思われないところにちゃんと聡子がそこにおるんですよ。
 はー、私が今言うたこと思うたことは神様が言わして下さっておる思わせて下さっておるなと、思うたらそれが今度は悪い方へ悪い方へ心が行くですね。まぁ、たったほんなわずか間じゃったけども、まぁ交通事故で亡くななさったと。はー、神様がもう亡くなる前に神様はあそこに会わせておって下さったのかもしれん。そんなこと考えるわけですね。信心というものはね、私は思うんですけれども、もうそれこそ小さいことにでもうハットするような神経がいるんですね。
 そしてなら私がですよそういう神経をなら神様へもっていっとったらもう直ぐ即座になく、それは心配がなくなることでしょう。けれども余りにも小さいことですからただ思うておるだけ。お風呂に入ってそなことを思うておる。ね。それでまぁ、帰ったかと尋ねることになる。帰っていないということになって不安になる。そしてその後には、いや帰って来となさったということで、安心するね。
 小さいことにそれこそこだわらんとか私はもうその小さいことにも驚きを感ずるような心の神経が信心には必要です。けれどもそれが一度神様へ向ったら今度はその反対に大きなことであっても心はもういうなら動揺しない。それはどういうことかというと、結局ままよという心をになるからです。私共がそれこそ小さいに(?)大きなことにも驚かんですむようなおかげを頂くことのために天地のように生きたい。その大きな偉大な天地のような心とはそれこそ針が落ちても、ハットする程しの心をいうのであり次の瞬間にはそれが安らぎの心にいうわゆる、神様へ心が向った瞬間いわゆる、どっこいと腹が座ってくる。
 そこで今日は私は思うんですけれどもね、勝手な生き方ね、ではないいつも教えに基づいた道理に基づいた生き方を身につけるということはどういうことかというと、金光様の御信心はね、お徳を受けることのためにある信心だということを分かることです。おかげを頂くためじゃないです。ね。私共はこの思い込みができてくる時にですね、小さいことには勿論ハットする程に驚きを感ずるような神経ね。かというとどういう大きなことがもし起って来ても、はは、これで神様が大きな徳を下さるんだな、力を下さるためだなと分からせて頂いたら驚かんですむおかげが受けられる。ね。 
 だから小さい神経ともうとてつもない大きな心とが私共の心の中に(?)をしていく生き方の中に生活が乱れない。まぁ、そのぐらいなことはよかろうと。このぐらいなことはまぁ、このぐらいなことはというところにです、【このぐらいのことなるからんによからんと心に許しにあやまち起こる】ということになってくるですね。教主様の御歌です。このぐらいなことなるからによからんと、心許しにあやまち起こるのであります。ね。そこんところを大事にさせて頂きながらです、実際は私共がハット小さいことにでもハットするぐらいの神経をもってそしてそれを神様へ向ければそのまま安心。
 例えよし大きな心、大きなことである場合はもう即座、即座に神様へ向けられる。そこに頂かれるのは、神様は、はー、これによって神様は力を下さろうとしておるんだというどっこい。これで一徳を受けようという心の状態が生まれてくるんです。
 我まま勝手な生き方。生まれる時には日柄も言わず方位も言わずね。死ぬ時には又、ね、日にちも言わずに(?)祈るという私共の生き方からね、本当の生き方。ね。それは天地のように生きたいということである。天地のように生きたいということはね、もうどんなに微妙なささいなことにでもこの神経で受け止められる心の状態を。又、どいうな時こことが起こっても驚かんですむ心の状態を鍛えていく。それは天地のように生きたい、いわゆる、天地日月の心といったような精進が常日頃できていくということがね、天地の日月の心の中には我まま勝手な生き方はございません。もうそれこそ天の心、地の心であります。
 ならそういうことが難しいかということ。難しくはない。その思い込んだ焦点というものがね、きょう、教祖金光大神を通して天地の神様が教えて下さってあること又、願っておられることは、氏子信心しておかげを受けてくれよということ。氏子信心してお徳を受けてくれよ、力をくれよということ。だから私共は日々の生活の全てがお徳を受けるための生き方にならせて頂かんならんということ。いや、もうお徳は頂かんでもなら苦しい困っておることがよう、おかげさえ頂けばよいという時代からその困ったり苦しんでおることを通して神様が力を下さるんだとこう受けて下さるんだということが分かると、その苦しいこともね、又難儀なこともそれこそ楽しくそれを受けていくことができる。
 結論をするとね、私共はお徳を受けるための信心をさせて頂いておるということになるのです。それをもう少し具体的に言うとね、天地のように生きたいということなんです。そこには小さいことにこだわらず大きなことに驚かんですむ心が備わってくる。備わってくると言いながらも心もいよいよ咲いてくる。神経が小さくなってくる。そこに針のが(?)落ちたその音にも驚く程しの心の状態をです、私共がみつめていくところにこれ程のことになるからによからんといったようないうなら、横着な心がなくなってくる。ね。  そしていよいよどういうなことがあって、それこそ天地がいうなら(?)かと思うようなことがもしあっても起こってもね、どっこいという心の状態。それはままよという心がもう天地と共に育っていっておる。そこにはどのような場合であっても驚かんですむ信心。ね。そういういうならばおかげを頂きたい。
 今日はね人間は勝手な者でとこう(?)。だから信心させて頂く者はその勝手な生き方からそれこそ土より(出て)土に返ると言われる程しの私共のことですから人間のことですからね、その道中とてもはやり土の心。いうなら天地のような生き方をです、いよいよ身に付けていくということ。そこにはね、成る程お徳を受ける信心だなということが体験させ、出てくる。いわゆる、その実験実証していく。はー、これが御神徳というものであろうかと思うようなここ、心の状態が開けてくる。人間の幸せの条件が足ろうてくる程しのおかげ。ただ部分的におかげがないですから体が弱いですから家庭が円満じゃないですからとそのおかげを願うということよりもです、ね。
 まずおかげを頂く。今日はほんに頂いておりましたが【おかげの(さいたん)距離】ということを頂いたんです。ね。それはどういうことかというと、皆がおかげが願っております。だからおかげの一番頂けれる早道ということです。おかげのさいたん距離というのは、兎に角受け物を作るということ。それはお徳を受けるということ。ね。受け物を作るということ。その受け物を作るいうなら手立てがです、私共が心の中に天地のように生きたい。勝手な生き方ではない。ね。いうならば、神様の心に叶う生き方。それは大変難しいことかというと、ちゃんとそこには道がつけてある。天地の道理という道がつけてある。その道理に基づいた生き方をするということは、ね。もうこの上もない有り難いもの楽しいもの。しかも愉快なものというような体験がいよいよ強うなってくるということだと思うですね。
 おかげの(さいたん)距離はまずはおかげの受け物を作ること。そうする起きてくる全ての事柄をです、はー、これによっておかげの受け物を作らせて下さるんだなというふうな思い方が直ぐできるようになる。そこから信心がいよいよ有り難いものになってくると思うんですよね。どうぞ勝手な者と言われる。勝手な生き方をしないということが金光教の信心。それは大変難しいことにようにある。我まま勝手な生き方はみやすいごとであるけれども我まま勝手な生き方程難しいものは実は、ないのですね。ですからそのところを私共が願わせて頂いていわゆる、おかげの(さいたん)距離を一つ、行く一日ありたいと思うんですね。どうぞ。